人間とそれ以外の生物との決定的な違いは、「自分がいつか死ぬ」ということを知っているか否か〈椎名誠が見た命の風景〉

いつか必ず「死ぬ」というのは、それぞれが違う人生を歩む人間にとってひとつだけ「平等」なこと。そのとき、何を見て何を想い、どう果てるのか。作家の椎名誠が「死とその周辺」をテーマとした取材から見出した新たな命の風景を、書籍『遺言未満、』より一部抜粋してお届けする。

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「死」を知る生物


この数十年、世界のいろんな国を旅してきた。行けば最低1カ月はひとつの国のあちこちを歩き回る。インドなんかに行くとあの大きな国のいたるところに、日本にいては想像もできないくらいの密度で人々がごった返している。赤ちゃんから老人まで、人人人がひしめいている。

その逆に日本よりもずっと面積の小さな国でも人がぎっしり、というところもある。人種も違うし、文化や生活、幸福感や生き甲斐、悲しみや歓喜などというのにも甚だしい違いがある。同じ人間でも、何がどうしてこんなに違いがあるのか、フと疑問を抱くこともある。どうしてこんなに差異があるのか。

ある国を見ては羨ましく思うときもあるし、その逆に、利己的に「ああ、このような国に生まれてこなくてよかった」などと多少の傲岸不遜とか自己卑下なども感じながら、そう思うときもある。

世界中、同じ人間でありながらみんな違う人生を歩んでいる。あたりまえのことだが、それに本気で気がついたときに、単純ながら、世界の人々は凄まじく不平等ななかに生きているのだ、ということがわかり、錯覚かもしれないが、自分の内面思考が少し深まったかもしれない――という気分になった。




写真はイメージです

そういうことを考えてからしばらくして、いやそれは違うのかもしれない、と思うようになった。我々人間はそれぞれの人生がみんな違うけれど、でもひとつだけ「平等」なことがある。

それは、これも単純な思考と知りつつ、敢えて書いていくが、みんないつか必ず「死ぬ」ということだ。子供から大人になる過程で、そのことにみんな気がつく。若い頃は、気がついてもさして動揺はしない。そこにはきっとみんな死ぬんだからしょうがない、自分にはまだまだ先のコトだろうけれど――、という余裕の気持ちが根底にあるからだろう。


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「面倒」な生き物


動物行動学で知られる日髙敏隆さんの晩年の著作(タイトルがどうしても思いだせないのだが)のなかに興味深い問いかけがあった。それは、人間と、人間以外の生物、たとえばサルとか犬とかニワトリとかイモムシとかハエからアメーバまで、とにかく「人間とそれ以外の生物との決定的な違いは何か?」というものだ。

はじめ簡単そうに思えたが、しかしいくら考えても「これだ!」と自信を持って答えられるものは何も出てこなかった。

回答は要するに「人間は自分がいつか死ぬ、ということを知っているが、その他の生物はそのことを知らない」というものであった。

なるほど、たしかにそうなのだろう。

働きアリが生まれてからずっと行列を作ってたとえば食料の欠片をくわえて巣に運ぶ。その単純な仕事をずっと続けて、ある日力つきて「死ぬ」。死ぬアリは自分がついに死をむかえた、ということは知らないだろう。

ブタが毎日人間から豊富な餌を与えられて、とにかく毎日朝から夜までそれを食べている。どうして人間が毎日豊富な餌を与えてくれるのか、ブタは考えたことがないだろう。




写真はイメージです

アリと違ってブタの場合はある程度成長したら、今まで見たこともないところに連れていかれてよく意味がわからないまま殺される。

賢いブタが生まれて、今までどのブタも思考したことのない、自分らに毎日食べ物を与えてくれる生物が最後には自分たちを食ってしまう、という単純な運命を理解してしまったら、そのブタは以降与えられる餌を食べなくなるかもしれない。

ブタぐらいの高度な脊椎動物でさえ、そういう自分らの「不幸な運命」を知らないのだから、虫ぐらいの小生物が自分におとずれる確実な死を知ることはまずないだろう。

その意味で地球という複雑な構造をした惑星は、生命に対して非常に不公平である。