「老後の学び直し」晴れて合格した大学で60代女性を待っていた「冷たい壁」とは…

「ねえ、お母さん、これどういうこと?」

「え?」

孫たちを連れて久しぶりに帰ってきていた娘の久美子は怒っていた。手には携帯会社からの請求書が握られていた。道代は封筒を勝手に開けたことをとがめようと思ったが、それ以上に久美子は怒っていた。

「1カ月の携帯料金が3万もしてるじゃん。そんな使ってないでしょ?」

「ええ、そうね。でも、それって普通じゃないの?」

「そんなわけないじゃん!」

久美子が請求書の中身を精査していくと、道代が全く使っていないオプションや高額なプランに加入していることが分かる。

「こんなのお母さんには必要ないでしょ。電話とメールができればいいんだから」

「そう、だけど、お店の人が勧めてきたから……」

久美子はあきれた顔になる。

「向こうは売り上げを出すために、お母さんをカモにしたんだよ」

そう言われると、道代は何も言えなかった。

それから久美子は道代を連れて携帯会社に向かい、すぐに高額なプランなどを解約していった。店員の対応などでいら立っていた久美子は帰り道で道代に冷たい目線を向けた。

「お母さんってさ、世間知らずだよね」

夜、久美子たちが帰ったあと、道代は1人寂しく晩ご飯を食べていた。

夫が亡くなってからは、テレビだけが話し相手になっているが、今日はテレビの音すらも入ってこない。頭の中では久美子の”世間知らず”という言葉が反響していた。

久美子は決して嫌みで言ったわけではないというのは分かっている。それでもあの言葉は道代の心に重くのしかかっていた。

道代は高校を卒業して、社会に出ることもなく、見合いで知り合った夫と結婚し、それからはずっと専業主婦だった。だから世間を知らないと言われれば、そうなのかもしれない。少なくとも久美子に比べればずっと、道代は世間知らずなのだろう。しかし道代も好きで専業主婦をやってきたわけじゃない。

そういう時代だったのだ。

シニア入試への挑戦

誰のために作っているのか分からない料理を食べ終え、道代はテレビをボーッと眺めていた。テレビはニュースを映していた。道代よりも上の世代の芸能人が大学入試に挑戦するという内容だった。

道代は思わず、テレビにくぎ付けになる。かつて、道代も大学進学を夢見ていた頃があった。

道代の周りにもちらほらと大学進学をする同級生はいたが、それでも一部の選ばれし人しか行けないという印象があった。

道代も意を決して父に大学進学を申し出たことはあったが、平凡な農家の娘の願いはあっさり一蹴された。決して夫は悪い人ではなかったし、幸せじゃなかったとは言わない。

それでも大学に行かなかったことを後悔していないかと言われればうそになる。

ニュースの締めくくりには現在、定年後に大学進学をする人たちが増えているという話をしていた。

自分と同じような人が大学にたくさんいるんだ。と、この言葉が道代の気持ちをさらに後押しした。

それから道代は不慣れながらネットを駆使して、大学に関して情報を集める。すると、道代が住む県内にシニア入試を行っている大学があった。

シニア入試とは60歳以上の人たちを対象にしている試験で、高校までの勉強を再度やることが難しい人たち向けのものだった。

勉強自体は嫌いではなかったが、中学、高校向けの勉強など40年以上やっていない。加えて、授業内容も全く違うので、今からその勉強をするのは難しいと思っていた。

シニア入試の内容は小論文と面接。それと基本的な学力などを確かめるだけなので、これならできるかもと思い、道代はさっそく大学進学に向けての勉強を始めた。

道代は久美子にも大学進学を目指すことを報告する。

「えっ⁉ 大学に今から行くの⁉」

「そうよ。昔から夢だったから」

「学費ってどれ位かかかるの?」

「入学金で28万円、授業料が年間で53万円よ」

久美子は空で何かを計算している。

「そうか。お父さんが残したお金とかを使えば、それくらいなら大丈夫か」

「ええ。年金がなくても暮らして行けるようにって、お父さんはしっかりと貯金をしてくれていたから」

「ふーん、そうなんだ。頑張ってね」

「うん、ありがとう」

道代は大学受験という挑戦に胸を躍らせた。

(広告の後にも続きます)

晴れて入学、だが突きつけられた現実

それから道代は残された時間の全てを入試対策に向けた。

世の中のことをちゃんと知りたいと法学部を選んだ。とはいえ、若いころのようにものを覚えられるわけではない。何度も繰り返さなければいけなかったが、今度は集中力を持続させるだけの体力がない。道代は壁にぶつかりながらも少しずつ着実に、粘り強く勉強を続けた。

時間をかけたおかげで、試験には無事合格。道代は晴れて大学生になることが決まった。

入学式当日、道代はこの日のために買っておいた通学定期券で電車に乗り込む。

周りにはスーツ姿の男女がちらほら見えた。彼らも同じ大学に行くのかもしれない。仲良くなるには何を話しかけたらいいのだろう。

そんなこと思いながら、電車で揺られていた。

大学に到着して、指定された講堂へと向かう。目の前の新入生は受付の女性から胸に挿す花飾りをもらっていた。

当然、道代も同じように受付に並ぶ。すると20代の女性は困惑した顔になる。

「あの、ここは入学者の受付になりますので」

道代は慌てて学生証を見せ、自分が入学者であることを示した。

「すいません……!」

「いえ、こちらこそすいません。間違えちゃいますよね」

女性は気まずそうに手渡された花飾りを胸に挿し、道代は案内図を頼りに法学部の座席に座る。笑顔で受け答えをしたはずなのに、胸が痛んだ。きれいな花飾りはたぶん道代には似合っていないのだろう。

入学式の開会時間が近づくにつれ、座席は新入生で埋まっていく。隣には派手なメイクの女性が座っていて、冷たい視線を道代に向けていた。

よれている花飾りをなんとかきれいにしようとしているとき、隣の女子生徒が誰かにメッセージを送っているのが目に入る。

――ウケる。となりにババアがいる

女子生徒が打ち込んでいた文章に衝撃を受けた。

まざまざと現実を突きつけられたような気がした。そしてバレないように周りを見渡す。

何処(どこ)も彼処(かしこ)も若者ばかり。肌つやも良く、気力に満ちあふれている。

ババア。

そんな人はこの会場に道代しかいなかった。

それからは何もかもが思い描いたものの反対だった。

入学オリエンテーションが終わった後、いたる所でサークルの勧誘が行われていた。しかし誰も道代に声をかけてこない。この晴れやかな場に、道代はふさわしくなかった。サークル勧誘でにぎわう構内のメインストリートで、道代は透明人間だった。

逃げ出すように大学を出た。家に着いてすぐ、玄関に座り込んだ。

大学に行こうだなんて場違いだったのだ。年相応に、おとなしくしていればよかったのだ。道代が吐いたため息は、いつまでも玄関に残って漂っている。

●前途多難な道代の大学生活……。「殻」をやぶるきっかけとなった事とは? 後編にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。