
平日の朝は戦争だ。真理は34歳になってもいまだに慣れない、というか面倒くさいとしか思えないメイクをしながら、女ばかりが化粧をしなければならないことになっている世間の空気の不条理を呪う。
朝起きて、髪を整え、着替えて、町内会のルール通りにゴミを捨て、できれば洗濯物だって片づけておきたい。朝食は夕食の残りで済ませるし、家事は夫の太一と協力プレイでこなすけれど、時間がないことに変わりはない。そのうえ、化粧や洋服まで気を使うなんて、毎日すっぴんとジャージだった学生時代が懐かしくもなるものだ。
夫にメイクをしてもらって出勤
真理が働いているのはイベント会社でも花形と言える企画部で、メイクや服装にも厳しい。仕事にやりがいはあるけれど、そこだけはちょっとストレスだ。
「ねえ、太一。この前貸してもらってめっちゃ良かったファンデーションどこー?」
「えーっと、右の棚の上から二段目。黒いやつ」
「どれも黒なんだけど!」
すっかり身支度を終え、リビングでくつろいでいた太一がため息をつきながら洗面所にやってくる。太一は細くて白くてきれいな腕を伸ばし、目当てのファンデーションを迷うことなく手に取った。
「はい」
「おぉ、ありがとう」
「自分でできる?」
「んー、やって」
太一はしょうがないなぁともう一度ため息をつくけれど、表情はまんざらでもなくうれしそうだ。真理が日ごろ使っているプチプラコスメとはくらべものにならない値段のファンデーションを、太一は嫌な顔ひとつせずに真理に貸してくれる。
メイクが終わったのは7時50分。自分でやっていたら、駅まで走る羽目になっていたに違いない。出来栄えも完璧だ。起き抜けのゾンビみたいだった顔は、むいたばかりのゆで卵みたいに艶やかに変わっている。真理は太一にお礼を言って、いつもより少しだけ余裕をもって家を出た。
空は雲一つない青空。この風景も、太一と一緒に生きているからこそ気づくことができる美しさだ。真理の足取りも、いつもより少しだけ軽い。
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夫婦の大切な「ルール」
大学生のときから付き合っていた太一と結婚すると報告したとき、友達たちはみんな驚いた。
小学校から高校までみっちりソフトボールをしていて、すっかり地黒になってしまった肌とそばかすの浮いたほっぺの真理。一方の太一はずっと文化部で運動なんてからっきし。興味があるのは洋服やメイクで、当時からバイト代や仕送りのほとんどを自分の趣味につぎ込んでいた。
「だって真理、ああいうチャラチャラしてるの好きじゃなかったじゃん」
そう言ったのは、1番仲の良かった香苗だった。真理はそうじゃないんだよと笑う。たしかに見た目はそうかもしれないけど、マメで真面目で優しくて、真理は太一のそういう部分が好きだった。
それに自分が好きなことに正直なのもすてきだ。メイクや洋服の話をしているときの太一は少年みたいな表情で笑う。
残念なことに、30歳を過ぎてなお、美容やメイクに疎い真理は太一の話の半分も理解できなかったし、興味だって全然湧かなかった。それに太一は美容やメイクのこととなると多少金遣いが荒いような気もする。けれどこんなものは不満のうちには入らない。真理だって友達とキャンプやスポーツ観戦によく出掛けてお金を使うのだからおあいこだった。それに今朝みたいなとき、太一の趣味は真理を大いに助けてくれるから頼もしくすら感じている。太一と一緒に生活するようになってから、同僚や後輩社員に「きれいになった」と言われたことだって一度や二度ではない
お互いの趣味や時間を尊重すること。
それが夫婦としてやっていくために真理たちが決めた、大切なルールだった。別にどちらかがどちらかに合わせる必要はない。子どもだって作らない。お互いが好きなことをして、楽しく生きる。そういう夫婦のあり方だってなしではないはずだ。けれど今振り返ってみれば、一緒に生きていくことがどういうことなのかよく分かっていなかったのかもしれないと真理は思う。
いいや、そんなことをちゃんと理解した上で結婚しているような人が世の中にどれだけいるというのだろうか。