
発達障害の特性が生み出してしまうことがあるとされるゴミ屋敷。筆者がこれまでの取材でもっとも忘れがたい光景がある。
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発達障害の特性の1つ、感覚鈍麻
静岡県下田市にある借家のある部屋には、使用済みのオムツが何カ月分も山積みにされていた。子育ての経験がある人ならわかると思うが、使用済みオムツの悪臭は激しく、3日前のものがたった1つであるだけでも、大概の人にとっては耐えがたいほどだ。それが数百個以上、他の生ごみとともに6畳ほどの部屋に放置されていたのだ。
しかもあろうことか、その部屋に暮らす女性は、自宅出産した子供を2度にわたって自らの手で死に至らしめ、押し入れと天井裏に遺棄していた。それらの遺体もまた腐敗して溶けていた。常識的に考えれば、この部屋に充満する悪臭は尋常ではなかったはずだ。同じ家に同居する家人は次のように語っていた。
「とにかく部屋が汚くて臭かったので普段から近寄らないようにしていました」
だが、この部屋に住んでいた女性は、臭いをまったく気にしていなかった。毎日コンパニオンの仕事を終えると、ゴミ屋敷となった部屋に戻り、生前の幼い子供たちを抱きしめ、朝のバイトがはじまる時間までゆっくりと眠りについていたのである。
写真はイメージです
集英社オンラインで「発達障害アンダーグラウンド」というシリーズを開始してから、筆者のもとには読者から多数の連絡が届いた。その中には、発達障害の特性の1つである“感覚鈍麻”に関するものも少なくない。
感覚鈍麻とは、一言で表せば、臭覚、聴覚、触覚などの感覚が平均よりも鈍いことを示す。冒頭の事例のようなゴミ屋敷になる原因は、感覚鈍麻だけでなく、発達障害の別の特性や他の様々な問題も複雑に絡んでいる。とはいえ、感覚鈍麻だけでも、当人にとっては大きな生きづらさに結び付く。たとえば、次のようなことが起こりうる。
・痛みを感じないので、捻挫や骨折をしていても普段のように動いて怪我を悪化させてしまう。
・暑さや寒さを感じにくいので、真夏に熱中症で倒れるまで激しい運動をくり返してしまう。
・空腹を感じないので、ご飯を食べようとせず、栄養失調状態に陥ってしまう。逆に満腹感がなく、ひたすら食べ続ける。
感覚過敏は、感覚が敏感になりすぎることによって生きづらさを抱えてしまう状態だが、感覚鈍麻はそれとは真逆だ。発達障害には、このどちらの特性も起こる可能性があるのだ。
感覚鈍麻を持って生きることの大変さは、これまでさまざまな形で報告されてきた。ただ、今回筆者のもとに多く寄せられたのは、むしろ当事者の周りにいる人々からの報告だった。身近な人に感覚鈍麻があることの悩みである。
いったい、どういうことなのか。読者から提供された例を示したい。
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タオルや衣服を何か月も洗わずに使い回し
●竹中聡子(仮名)の例
父親の実家で、竹中聡子は一人っ子として育った。父親はレストランを3店舗経営していた。母親はあまり頼りにならなかったらしく、聡子の身の回りの世話は祖母がほとんどしていたらしい。
聡子が小学3年生の時、親が不仲によって離婚することになり、母親に引き取られたことによって、聡子の生活は一変した。後に判明するのだが、この母親に発達障害があり、感覚鈍麻の傾向が見られたのである。
母親は臭覚がほとんどないらしく、タオルや衣服の臭いが気にならず、何か月も洗わずに使い回しするのでひどい臭いがしていたそうだ。また、冷蔵庫や鍋の中身が腐っているのに気がつかないことから、それを食べさせられてお腹を壊すこともしばしばだったらしい。
温度に対する感覚鈍麻もあったようで、家にはエアコンが設置されておらず、真冬でも窓を開け放っていた。衣服に関しても同様で、母親は一年中夏服でいて、聡子にもそれを求めた。だが、聡子の方は寒くて耐えられない。それで上着を買ってくれと頼んでも「平気でしょ」と一蹴された。
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こうした生活の中でもっとも耐え難かったのが、食事だったらしい。母親は空腹感に乏しく、食事にまったく関心を持っていなかった。毎日、聡子が「お腹が空いた」と訴えてはじめて何かを作るのだが、自分が食べたくないので本当に簡単なもの、たとえば食パンとジャムや、焼いたお餅を出す程度だった。そのせいで聡子は栄養不良で何度か体調を壊したが、それ以上に母親のほうも栄養不良で数えきれないほど倒れていたそうだ。
このころの生活を、聡子はこう話す。
「2人で暮らしはじめた当初は私も小さかったので、お母さんの〝変なところ〟が何なのか具体的に気づくことができませんでした。なんか話がかみ合わないというのは漠然と感じていましたが、それが何なのかはっきりしなかった。
それに、お母さんが栄養不良などでしょっちゅう倒れたりしていて、私がその世話をしていたので、家の環境のことをちゃんと考える余裕がありませんでした。今で言えばヤングケアラーで、その日その日のことで精いっぱいだったんです」