
昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、逮捕直後に訪れた宮崎勤の部屋、宮崎家の歪んだ家族関係について、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。
#1
「息子はあんな事件を起こすような男ではない」
「八王子市内でわいせつ事件を起こした五日市町の男が、Dちゃん殺害を自供」
平成元年、1989年8月10日。この日から所属していた編集部の夏休みが始まり、わたしは家族を車に乗せて奥多摩湖に向かっていた。
奇妙な縁だが、4人目の被害者Dちゃんの頭部が発見された杉林脇の吉野街道を走行していたときに、カーラジオから臨時ニュースが流れた。心臓がばくついた。わたしは車を急転回させて、西多摩郡五日市町(現・あきる野市)へ急いだ。
自供した男の名前も住所もわからない。とりあえず五日市警察署へ向かうと、署員全員がテレビの画面を見つめていた。名刺を出すと、「うちの署は事件とは関係がないので何もわからないが、自宅はあそこだよ」と清流・秋川の対岸を指した。
Dちゃん殺害を自供した宮崎勤の実家は週刊「秋川新聞」を発行している印刷会社だった。 炎天下の昼すぎ、すでに数人の報道陣が勤の両親を囲んでいた。
家族旅行中だったわたしはランニングに短パン、サンダル姿だった。裏口から入ると、「こいつは誰だ」という視線が一斉に飛んできた。旧知の新聞記者が手招きしてくれたお陰で、なんとかマスコミと認知された。
宮崎勤・元死刑囚の自宅
印刷機が並ぶ工場奥の居間で、頭髪をポマードで固めた艶っぽい父親(当時59歳)と小柄な老婦人がちょこんと座って、記者からの質問に答えていた。わたしが勤のおばあさんだと思ったその女性は、母親(当時55歳)だった。それほど夫妻の見た目には差があった。
「子供のころはコツコツやるタイプで努力家だった。他人との付き合いに欠けていたので町の消防団を勧めたのだが……。息子は物静かで大人しい性格。あんな事件を起こすような男ではない。夜、出歩くこともないし外泊もない」
父親は勤の人柄を語った。記者たちは“今田勇子”が被害者宅に送ったメモについて質問した。
「私のワープロ、コンピューターに勤は手をつけていない。インスタントカメラやビデオカメラもない」
わたしは「家族で幼女殺害事件が話題にならなかったのか」と聞いた。
「一切ない」
苛立った表情の父親は、きっぱり答えた。
「趣味はアニメのビデオ収集。勤の部屋を見てくれればわかる」
宮崎勤・元死刑囚の自室
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マスコミ的に“おいしいブツ”がまったくなかった
母屋の裏に、渡り廊下でつながった子供部屋があった。部屋は3室あり、西側の角部屋が勤の部屋だった。父親の了解を得た記者たちは、勤の部屋に足を踏み入れた。続々と取材陣が集まっていた。
大型テレビと4台のビデオデッキ。8畳の部屋の窓と壁がビデオテープで覆いつくされていて薄暗い。『リボンの騎士』『ゲゲゲの鬼太郎』など、さまざまなジャンルのアニメ作品が並んでいた。
記者たちのあいだでビデオテープの数を「2000本ぐらい」と見積もったが、その後、6000本近くあったことが判明した。
敷きっぱなしの布団の甘酸っぱい臭気が鼻をついた。積み重ねられた段ボール箱には「メンコ」「カード」と書かれていた。のちに「オタク」と表現されたが、わたしは26歳にもなる男の収集の子供っぽさに唖然とした。
宮崎勤・元死刑囚の自室
床には少女雑誌やビデオ雑誌などが多数散乱し、その下にエロ漫画『若奥様のナマ下着』があった。それをひょいと抜き出したテレビカメラマンは、散乱した雑誌の上に乗せ撮影した。
性犯罪者の“いい画”を撮るための演出である。マスコミ的に“おいしいブツ”が、ほかにはまったくと言っていいほど部屋にはなかったのだ。
唯一、幼稚園の入園案内パンフレットがロリコンを連想させたが、部屋の中には女性が写っているテニスクラブのパンフレットもあった。この男は幼女だけでなく、“オンナ”に興味があるのだ、とわたしは確信した。
工場にはドイツ製ハイデルベルクの印刷機や活版印刷機があり、インクの油っぽいにおいが漂っていた。勤が生まれる前から働いているという工場長に話を聞いた。
「仕事中に『この事件の犯人は極刑だな』と勤くんに話しかけたら、なんの反応もなく聞き流していた。彼が関係あるのが、信じられない」
わたしは「このなかに勤が写っているか」と宮崎家の家族写真を工場長に確認したが、「いない」と言下に否定された。