
昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、事件の経緯、被害者家族の悲痛な胸の内を、当時、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。
街の公園から、子供たちの歓声が消えた
昭和が終わろうとする1988年8月22日、午後6時23分。4歳(当時)の女児Aちゃんの母親(当時44歳)から、埼玉県警に電話が入った。
「本日午後3時ころ、近所に遊びに行く、と言って外出した次女が未だに帰宅しない」
県警が駆けつける前には、すでにマンション自治会の方々がAちゃんの捜索を行っていた。そこに父親(当時47歳)の姿がなかったことで、のちにあらぬ詮索を受けた。父親が娘の失踪を知ったのは翌朝、経営する都内の設備設計会社にかかってきた県警からの連絡によってだった。
自宅は埼玉県入間市。マンションの裏には入間川が流れている。この日、仕事に忙殺されていた父親は、終電前に仕事が終わらなかった。
「あの日は、いつものホテルに泊まる予定だったが満室で、以前一度だけ世話になった旅館に宿を取ったのです。いつもならすぐに熟睡するのに、胸がドキドキして眠れなくて。体の具合が悪いのかなと思うほどでした」
この想定外の行動で、奥さんからの連絡は途絶え、娘の失踪を知る由もなかった。父親は、帰宅してからはAちゃんの足跡を求め、奔走した。
「Aを連れ歩いた場所や、西武線沿線を一駅一駅下車して、手がかりを求めて探しました。もしかして山の中の水溜まりにはまっていないか、と80日間歩き回りました。5年でも10年でも娘を探そうと覚悟を決めたのです」
そうした地獄のような日々が続くなか、同年10月3日、今度は隣町の飯能市に住む7歳(当時)の女児Bちゃんが行方不明になった。
さらに2か月後の12月9日、川越市に住む4歳(当時)の女児Cちゃんが自宅近くで忽然と姿を消した。5日後、「C かぜ せき のど 楽 死」と書かれた謎解きのようなハガキが、川越市のCちゃんの自宅に届く。翌日、全裸にされたCちゃんの遺体が入間郡名栗村(現・飯能市)の山林で発見された。
小さな女の子を持つ親たちは、震え上がった。街の公園から、子供たちの歓声が消えた。
宮崎勤・元死刑囚の自宅
(広告の後にも続きます)
Aちゃんの葬儀当日に届いた「告白文」
このCちゃん殺害事件から、当時写真誌の記者だったわたしは取材に関わった。写真誌記者の宿命で、少女たちの顔写真を入手するため奔走した。
川越署は情報提供のため積極的にメディアに対応した。今では考えられないが、Cちゃんの写真提供を依頼すると「親御さんの了解があれば」と、その場で母親に電話を入れてくれたのだ。この週の誌面には、笑顔のAちゃん、Bちゃん、Cちゃんが並んだ。
確たる情報があったわけではないが、このころからメディアは連続誘拐事件を匂わせた。この時期、捜査線上に、のちに逮捕される宮崎勤に繋がる情報は皆無だった。
元号が平成に変わった1989年2月6日、Aちゃんの自宅玄関前に段ボール箱が1個置かれていた。Aちゃんの父親がそのときの状況を語ってくれた。
「あの日は、午前5時半に会社に行こうとドアを開けたらズズーと何かに当たった感触がありました。近所の子供の忘れ物かなと思って中を見ると、これはまずいと直感しました。Aが穿いていたパンツの写真、遺骨らしいものや暗号のようなコピー用紙が入っていた。とても女房には見せられないと思いました」
拡大されたコピー文字には「A 遺骨 焼 証明 鑑定」と書かれていた。送られてきた子供の歯を見た瞬間、父親は娘の死を確信したという。
しかし、捜査本部が置かれていた狭山署は「発見された歯牙は、Aちゃんの治療時のカルテとは異なるものと認められる」ため、別人の歯牙と断定した。
だが、3月1日、狭山署は段ボールの人骨はAちゃんのものであると発表し、死亡が確定。3月11日には葬儀が執り行われた。
宮崎勤・元死刑囚の父親が経営していた印刷工場
遺骨が入った段ボールが届いた直後、「今田勇子」の名で朝日新聞東京本社とAちゃんの自宅に「犯行声明」が郵送された。捜査の攪乱を狙ったのか、「子供を産めない女」を演じていた。
「私は、神に斗(たたか)いを挑まなくてはなりません」
Aちゃんの葬儀当日には、今田勇子からの「告白文」が届いた。犯行声明と同様に、朝日新聞社にも郵送されたことが葬儀会場内に広がり、騒然となった。ワイドショーは連日、「子供を亡くした中年女性」などと、今田勇子像を分析、解説した。
宮崎勤・元死刑囚の自室