
2018年9月16日、アーティスト・安室奈美恵は芸能界を引退した。その音楽性はもとよりルックスやファッションは多大な影響力を放ち、“アムラー”なる流行語や社会現象も生まれ、“女子高生”や“コギャル”たちのカリスマだった。年齢とともに常に新しい魅力を創り出し、歌い手としてブレない進化を遂げてきた安室奈美恵というアーティストが、時代と最もシンクロしていた頃について考察する。
すべてを変えていった“女子高生”の登場
バブル80’sに青春を過ごした世代がジュリアナ東京で“最後のパーティ”に明け暮れていた頃、若者社会ではひっそりと地殻変動が起こっていた。
1992年頃になって頻繁に話題に上ることが多くなった“女子高生”の登場だ。
“高校生の半分”である彼女たちは、女子大生やOLを蹴落として消費や流行の中心に躍り出る。さらに若者社会の主導権という意味でも、それまでの20代の社会人からの低年齢化を促した。
しかも高校生としてではなく、“女子高生”として握ってしまう。ここで重要なのは、本人たちが自分自身を“女子高生”として意識していたということ。
放課後の渋谷に集まる高感度な彼女たちは、自分たちに十分な商品価値があることを知っていたのだ。
この“女子高生”は何も突発的に生まれたものではない。その源流は1980年代半ばに見ることができる。
その頃、東京の高校生が渋谷の街を舞台に独自の流行や現象を生み出し始めた。先導したのは「受験なし・都心在住・経済的余裕」といった“遊べる環境”にいた男子付属高生たち。団塊世代の親の影響もあってアメリカナイズされた文化に慣れ親しんでいた。
例えば、当時話題になったアメカジや渋カジやキレカジなどの男女共有のカジュアルファッションはすべて彼らのアンテナで広まったもので、決してファッション雑誌やTV番組が発信したものでない。
「流行はメディアではなく自分たちが作る」という点は、まさに街発信カルチャーの原点であり、渋谷発のハイスクール・スピリットの幕開けとも言えた。
そして男子校ゆえに異性と出会う手段としてのディスコパーティがブームになり、学校単位で仲間の証としてのチームが続々と生まれていった。制服のモデルチェンジも盛んに行われて女子校人気が高まったのもこの頃だ。
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女子高生が独自の世界観で流行を作り続けた
こうした過程で“女子高生”も形成されていくのだが、彼女たちに芽生えたこととは一体何だったのか?
1980年代後半より都市部の高校生特有のネットワークに着目してティーンマーケティングを手掛ける株式会社SHIP代表・松並卓郎氏は指摘する。
「高校生活3年間は期間限定のプレミアのようなものです。“遊べる環境”になればなるほどその志向が強い。しかも彼女たちにはクチコミという魔法がありました。学校のクラスメイトや先輩後輩、都心や地元の友達といったように1日で接触して会話する人数がとにかく多い。いろんな学校に友達がいるような子の情報は特に影響力を持っていましたね。今のソーシャルメディアのように簡単に情報拡散できないぶん、広まる情報にはリアリティがあり、人づての温かさもありました」
さらに彼女たちにはマイナーなモノやカルチャーをメジャー側に取り込んでいくようなボーダーレス感覚と、既存のものを自分たち好みに変えていくというDJのような優れたリミックス感覚もあった。
世の中に知れ渡ることになった都心の“女子高生”は次々と独自の世界観で流行を作っていく。
「パラギャル」と名付けられた女の子だけの最初のファッションを発信したり、足元の基準をソニープラザで購入したルーズソックスに変えたり(これを受けて靴下どめのソックタッチも生産を再開)、放課後の渋谷を歩くために制服の着こなしにいそしむことが当たり前になった。
そしてビジネスマン向けツールだったポケベルや名刺、カラオケボックスや使い切りカメラも自分たちのコミュニケーションツールにした。
TVドラマの『高校教師』が話題になった。
ちょっと派手な子や日焼けサロンに行ったりクラブで遊んでるような子たちが「コギャル」と呼ばれ始めた。みんな「超○○」「ウチら」とか、あるいは「なくない?」のような語尾を上げる言葉遣いをしていた(1994年の小沢健二とスチャダラパーの『今夜はブギーバック』やEAST END×YURIの『DA.YO.NE』にも“女子高生”用語が登場)。