
【東京・府中発】プロフィールに記したとおり、塚田さんは大学を卒業した後、地図製作に欠かせない測量技術を学び、米国に渡って二つの修士号を得た。そして、現在は社長業のかたわら、大学の非常勤講師としてGIS演習の講義も受け持っている、まさに学究肌の経営者なのだ。ちなみに、新入社員研修は先輩社員が担当するが、受け持つのは必ずしも得意分野ではないそうだ。だから、教えるほうの先輩も常に勉強しなければならない。人材育成の面でも学びの多い対談となった。
(本紙主幹・奥田芳恵)
●創業者は陸地測量部出身の地図製図技術者
東京地図研究社は、昨年、設立60周年を迎えられたとのことですが、まず創業のいきさつからお話しいただけますか。
創業者は私の父、塚田建次郎です。1958年に杉並区西荻窪で創業し、62年に会社組織にして、その翌年、ここ府中に新社屋を建て移転してきました。
地図の製作というと、身近なものにもかかわらず、かなり特殊な仕事のように感じます。
父は戦前から戦中にかけて、陸軍参謀本部の外局だった陸地測量部で地形表現の技術者として働いていました。そして敗戦後は、陸地測量部が内務省の地理調査所(国土地理院の前身)となり、引き続き地形図作成に従事していたのですが、49年に退職し、いったん出版関係の仕事に携わることになります。でも、地図づくりへの思いは断ちがたく、地図製図業を始めたということです。
ということは、お父さま自身が地図づくりの技術者だったからこそ、この会社を起こすことができたのですね。
そうですね。戦後は、戦災で破壊された街の復興のために大縮尺(縮小率が小さく詳細な)地図の需要が高まっており、たくさんの民間測量会社が設立されたのですが、そこには陸地測量部出身の技術者が数多く参加しました。当社もそうした流れのなかでの創業といえるでしょう。
地図製図業の顧客は、誰になるのでしょうか。
国土地理院や国土交通省などの官庁、地方自治体のほか、民間では大手測量会社、ゼネコン、ディベロッパー、シンクタンクなどですね。
なるほど、そういった公的機関や企業から発注を受けて、製作した地図を納品するわけですね。ところで、お父さまは野野子さんの幼い頃に起業されたわけですが、当時のご自身にとって地図はどんな存在でしたか。
自宅兼仕事場で、当時は従業員と一緒に生活していたので、地図はとても身近な存在でした。地形図や鉄道図や土地利用図など、さまざまな地図を製作していましたが、こうした地図はいわば社会における縁の下の力持ち的な存在です。そして、ペンや烏口、スクライバーなどの製図用具で線を描いていた時代でした。地図好きな人にとっては絶好の環境だったと思いますね。もっとも当時の私には、正直、猫に小判という状態でした(笑)。
現在はお父さまの跡を継ぎ、社長を務めておられるわけですが、地図に対する意識が変わったポイントはありますか。
大学時代、80年頃に大手測量会社でアルバイトをしたときですね。デジタルマッピングが出始めた頃でしたが、このとき「地図って面白い」という気持ちが芽生えました。
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●測量の技術、経営の知識
そして最先端のITとGISを学ぶ
地図のどんなところが面白いと感じられたのですか。
私たちの会社は、地図製作のプロセスで主に地図編集と製図の工程、下流の部分を担っています。印刷にかける前段階くらいのところですね。
でも、その測量会社でアルバイトをしたときに、航空写真や測量データなど、上流工程にあるさまざまな地図のソース作成のプロセスに触れました。地図が完成に至るまでのそれぞれの段階で、幅広い仕事があることへの魅力と、またそれらのソースから目的に応じて的確に地図を編集作成する醍醐味と重要性に気づいたのです。
そのあたりから、地図の仕事に携わろうと思われたのですね。
そうですね。大学を卒業した82年に当社に入社しました。でも大学では法律を専攻したので、小平にあった国土建設学院という測量の専門学校に1年間通って専門知識を学びました。
測量専門学校というのは、どんなところでしたか。
測量関係の資格を取るために、各地の測量会社の後継者などが集まる学校でした。ですから、いわゆるガテン系の人もいたりして、大学(慶應義塾)とはずいぶん毛色が違うと思いましたが、「格好より中身」というところがいいと思いましたね。
ということは、だいぶ現場色が強い学校だったのですね。
まず、資格をとるという目的が明確だったので、濃密な日々を過ごしました。座学だけではなく、夜中に学校の屋上での天文測量や山梨県上野原市での実習もあり、みんなで助け合いながら現場に臨んだり、計測結果を整理したりしたことはとても貴重な経験でした。
やはり当時、女性の数は少なかったのですか。
そうですね。いまでは女性の比率は増えていますが屋外での作業となると当時は測量機器も重く、朝も早かったりしますので体育会系の雰囲気がありました。
1年間、測量学校で学んだ後は会社に戻られたのですね。
はい。会社では主に大縮尺の基本図作成や土地利用図など主題図の仕事に携わっていました。こうした地図作成の仕事を通じて、その普遍性や可能性を感じるようになり、それならばもうちょっと勉強したいと思って、米国に留学しようと考えました。
それは何歳の頃ですか。
ちょうど30歳のときですね。2年間休職し、私費でワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学の経営大学院に入って、MBA(経営学修士)の資格を取得しました。
地図作成の現場の仕事に加え、将来に備え経営的な知見も身につけられたわけですね。
ワシントンDCは土地柄もあり、さまざまな研究機関などからの講師陣やクラスメイトもいて、とても刺激的でした。私がジョージ・ワシントン大学の大学院に入った89年、MBAの課程でInformation Technology Management(ITマネジメント)の授業を受けました。この時期には、全米の空間データを収集・構築と運用する動きが進んでいて、驚愕しました。また、政府や軍、研究機関や大学などで、インターネットが利用されはじめていました。
89年といえば、まだ平成の初めですが、米国では30年以上前にそこまで進んでいたのですね。
そして、Geographic Information Systems(GIS)という概念、これは位置に関するさまざまなデータを地図上で扱う情報システム技術のことですが、これについてもちょっと勉強したいと思い、MBA取得後は会社からの派遣というかたちで、メリーランド大学地理学科修士課程に進みました。
ここで3年間勉強し、地理学修士を取得しました。
塚田さんは学究肌でいらっしゃいますが、「ちょっと勉強したい」という思いから、都合5年間も米国で学ばれたのですね。おそらく、得られた知識は「ちょっと」どころではないと思いますが、後半では帰国後のお話をうかがいます。(つづく)