【対談連載】マルチクリエーター 広井王子(上)

【秋葉原発】広井さんは、中学からの立教ボーイ。ところが、授業をサボって映画館に入り浸っていたことがばれて、中学3年生のとき1カ月の停学をくらってしまい、その間、毎朝6時からキャンパスにある教会の掃除を命じられた。でも、先生は「そんなにたくさん映画を見ているのか。すごいな」と声をかけてくれ、教会の牧師さんからは「神様はおまえのようなポンコツが大好きだ。おまえは神に愛されている」との言葉をもらったそうだ。それはまさに、広井さんの人生に自信を持たせた救いの言葉だった。(本紙主幹・奥田芳恵)

●子どもの頃から

「本物」だけを見続けてきた



 素敵なお召し物ですね。

 そうですか。ありがとうございます。私は戦後の東京・向島の色街で育ちました。そこで母や親戚の女性から、まるで着せ替え人形のようにいろいろなものを着せられたので、子どもながらにそうしたセンスが身についたのかもしれませんね。

 そういうのは嫌ではなかったのですね。

 ええ。それから叔母(水品美加さん)がSKD(松竹歌劇団)の1期生だったので、浅草の国際劇場の楽屋にも自由に出入りできて、踊り子さんたちにもずいぶん可愛がられました。口紅や白粉が美しいと思ったのも、この頃からですね。

 当時から美的センスを磨かれていたと。

 父親からは「本物しか見るな」と言われて、美術館や劇場などで、いろいろな本物の芸術に触れました。だから、自分には「見る目がある」と思っています。大人になって、そこそこのお金を稼ぐようになってからは、世界中の「本物」を見て歩きました。だから、たとえば映画にしても、私はリュミエール兄弟以降の歴史をすべて語ることができます。でも、勉強は永遠にしなければなりません。

 ご両親には感謝ですね。

 親に対しては、複雑な思いがありますね。猛烈な反発心を抱いていた時期もありましたが、この歳になると好きだった部分を思い返したりもします。

 家が娼家だったから、どこか社会に対して引け目がありました。私が小学校に上がる頃には売春防止法の施行によって商売替えをしたとはいえ、偉そうなことは言えないと感じていたのです。それならば、働かずに道楽をして、家を食いつぶしてやろうと思ったりもしました。

 それはまた、ずいぶん大胆な志ですね。

 当時は「すべてのものが見たい」という気持ちでいっぱいでした。常に本を読み、映画を見て、舞台に行き、音楽を聞く生活です。だから、働いている暇などないと考えていたのです。

 もちろん、そのときに吸収したものがお仕事に生かされたとはいえ、その後のマルチなご活躍を思うと、すごいギャップを感じます。

 ところが、20歳過ぎに父親が亡くなると、家にお金がないことがわかります。母に「働かなきゃいけないのですか」とたずねると「それはそうじゃないの」と。こりゃ、困ったなと思いました(笑)。

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●仕事のスタートは

なんと刺繍のデザイン!



 現在はマルチクリエーターとしてご活躍の広井さんですが、最初はどんな仕事に携わられたのでしょうか。

 アルバイトをいろいろしたり、俳優の森本レオさんの付き人のようなこともやったりしましたが、ちゃんとお金を稼ぐ仕事のスタートは刺繍ですね。

 刺繍って、あの刺繍ですか?

 キャップのマークや、フラッグ、ワッペンなどのデザインですね。けっこう技術が必要で、針数が少ない大きなデザインが好まれました。加工賃がなるべくかからないように、工数を最小限にすることも大事でしたね。

 その刺繍の仕事は、ご自身で選ばれたものなのですか。

 森本さんから「おまえ、絵を描けるのだからやってみないか」と言われて、やってみたら面白かったんですよ。現場でいろいろ教えてもらって、この仕事は4年ほど続けました。

 その仕事の後、自分で石に絵を描いて、それを原宿で売っていました。石は売れませんでしたが、通りかかった広告代理店の人から声をかけられたのです。それをきっかけに、菓子メーカー・ロッテの食玩(お菓子のおまけ)を手がけるようになります。ここで工夫したのが、おまけの中にストーリーを入れて、キャラクターに命を吹き込むことでした。これがヒットして、寝る間もないほどデザインに明け暮れたんです。

 石を売る発想もすごいですが、それがビジネスにつながるプロセスも思いがけないですね。

 この食玩(ネクロスの要塞)の仕事が当時のタカラの目にとまり、アニメ作品『魔神英雄伝ワタル』のプロデュースにつながりました。

 このとき、私は「アニメは25分のCMだ」と言ってアニメのクリエーターたちから嫌われたのですが、あくまで玩具を売るためにアニメを制作すべきだと考えました。クリエーターが暴走してはならず、商品が売れることを第一に考えると。今は独立した作品としてアニメは認められていますが、当時は必ずしもそうではなかったわけです。

 そしてその後、広井さんはゲーム制作者としても活躍されるわけですが「働きたくない」どころではない目まぐるしいまでの働きぶりではないですか。

 まずはお金を稼がなきゃという思いがあり、たとえば食玩のときも最初はとても安い金額で請け負ったのですが、その商品がヒットすると「こんなにもらっていいのか」と思うくらいもらえました。つまり、自身の技術や商品のクオリティを高めることが、自分の価値の向上につながると知ったわけです。だから、発注元のプロデューサーが「これだよ!」と得心してニコッと笑ってもらえるところまで、延々とアイデアやプロトタイプをしつこく出し続けました。そのスタンスは、その後のゲーム制作や舞台演出の仕事でもずっと変わりません。

 どうして、そこまで徹底できるようになったのでしょうか。

 自分が成長していこうとする時期に、周囲の大人から「もっと考えろ」と叩かれ、仕込んでもらえたことが大きかったですね。そしてそういう時期に、私はいい大人に見つけてもらえたことがラッキーでした。

 「いい大人」に見つけてもらうには、どうしたらいいのでしょうか。

 その条件はただ一つ。「明るさ」です。

 「明るさ」ですか……。

 そう、明るさです。できないことにでも「は~い」と明るく手を挙げる。つらいことがあったとしても落ち込まない。「こんなことは大したことじゃない。なんとかなる」といつも楽観的。そうしていれば、クリエイティブの現場スタッフも楽しくなります。そして、みんな一生懸命に仕事に取り組みます。

 そういうタイプの人がいると、一緒に仕事がしたくなりますものね。

 私たちは独り善がりの芸術家ではなく、消費者に楽しんでいただくエンターテインメントを提供するクリエーターです。よって、お客様を笑顔にし、さらに面白いものをつくり出していくことが大事なのです。(つづく)