【対談連載】宮城芸術文化館 館長 マーブル・ペーパー作家・蒐集家 三浦永年(上)

 【気仙沼発】マーブル・ペーパーとは、ヨーロッパで古くから本の装丁などに用いられている工芸紙のこと。宮城県気仙沼市の宮城芸術文化館には、そのコレクションをはじめ、永年さんの妻、ティニさんが描いた巨大な『天地創造』の壁画をはじめとするさまざまな作品、写真家である兄、三浦功大さん(故人)が撮影したルイ・アームストロングなど著名なジャズ・ミュージシャンたちの写真、日展会員の彫刻家、勝野眞言さんの作品など、貴重な芸術作品が所狭しと並ぶ。このわくわくするような空間で、世界で活躍する永年さん、そしてティニさんの話をうかがった。
(本紙主幹・奥田芳恵)

●政治家を目指してロンドンに留学



 2023年9月に、気仙沼の地に宮城芸術文化館をオープンされました。ご夫婦そろって世界的なアーティストでいらっしゃいますが、ここに至るまでのお話を聞かせていただけますか。

 私の出身地は宮城県登米市で、高校卒業までは登米で暮らしました。その後上京して、早稲田大学の政経学部に入学し、そこで政治家を目指したんです。

 政治家ですか!

 ええ、多くの政治家を輩出した雄弁会や自由主義研究会に入ったり、議員秘書の真似事をしたこともあります。

 アートの世界とは、まったく異なる印象ですね。

 それで政治家になるためにさらに学ぼうと考え、英ロンドン大学の大学院に留学しました。こうお話しすると、私がいい家のボンボンだと思われるでしょうが、父は私が物心つく前に戦死し、母は女手一つで4人の子どもを育てました。

立派なお母様ですね。

 父親がいない家庭の子どもですから、当時の東北地方では集団就職というのが相場だったと思います。でも、兄が優秀で早稲田大学の法学部に進んだので、私もそれに憧れて後に続いたというわけです。

 でも、学費とか生活費がたいへんですよね。

 ラッキーなことに、学部で1人だけ支給される奨学金を受けることができたのです。もちろん、アルバイトもたくさんやりました。苦しかったけれど、夢があったから耐えられました。

 それでは、ロンドンでの生活も……。

 もちろん、アルバイト生活です。本来、留学生は働いてはいけないのですが、申請してみたら、なぜか労働許可書がもらえました。だから大手を振って、水泳のコーチ、ドミトリーの掃除、家庭教師、ステーキハウスでの調理など、いろいろな仕事をしましたね。

 本業の大学院のほうは?

 当時の大学院は1年前に入学受付を締め切っていたため、最初の1年は語学学校に通いました。ですから、その翌年から大学院に通うわけですが、カレッジのすぐそばに大英博物館があり、隅から隅まで見て歩いていました。ロンドン市内には美術館や博物館が100以上あるのですが、自分にとってそれはすばらしい環境でした。

 政治学よりもアートのほうに魅力を感じ始められたのですね。

 大英博物館に通っていると、政治なんて小さなものだと感じるようになりました。そして、自分には政治家は向いていないと思い、美術にのめり込むようになったわけです。

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●出会って2日目に

ティニさんにプロポーズ



 三浦さんが手がけてきたマーブル・ペーパーとの最初の出会いはいつですか。

 早稲田の学生時代、東京・神田の古書店で買った政治学の原書の表紙に、マーブル・ペーパーが使われていたんです。このときは、ただ「きれいだな」と思っただけでした。

 ところがロンドン留学中に、大英博物館のみならず欧州中の博物館や美術館、図書館をめぐるようになり、マーブル・ペーパーで製本・装丁された希少本を数多く目にするようになりました。そうしているうちに、この美しいマーブル・ペーパーがどのようにつくられているのか知りたくなったわけです。

 どうしてそこまで、アートの世界やマーブル・ペーパーにのめり込んだのでしょうか。

 もともと何の経験もなく真っ白なキャンバスのようなものだったから、とてもフレッシュな気持ちで自分なりの解釈ができたからでしょうね。それで、ヨーロッパ各地のマーブル・ペーパーの制作者を訪ねて話を聞いたのですが、そのなかに妻のティニがいたんです。

 いまティニさんは、世界的な製本装丁家としてご活躍ですが、当時からもうこの仕事に携わっておられたのですね。

 ええ。ティニと初めて会ったのは、ストックホルムにある世界初の野外博物館スカンセンでした。このとき、私はロンドン留学の2年目でしたが、出会って2日目に求婚したのです。

 ええ~!

 “Follow me” と言ったら、その場でOKしてくれました。

 とてもドラマチックですね。

 それで、ロンドンで5年間暮らした後、いったん日本に戻りました。ちょうど私が30歳のときのことです。

 幸いなことに、このタイミングで日本橋高島屋から、ティニの展覧会を開きたいという声がかかりました。当時の支店長の大倉郁雄さんは、著名な日本画家である川合玉堂のお孫さんで、とても絵画に詳しい方でしたが、その大倉さんとお会いしたとき、展覧会を開くにあたって、日本とティニとの関係が何かないかとたずねられました。

 そういう縁があったほうが、開催にあたってアピールしやすいのでしょうね。

 ティニは、江戸時代に祖先がオランダ船のナビゲーターとして長崎の出島に上陸したことがあるとか、美術大学の教授を務めていた父が尾形光琳など琳派の研究をしていたという話が出ましたが、いま一つ、大倉さんの反応はさえません。

 ひとしきりお話をして帰ろうとしたとき、ティニは「思い出しました。私、川端康成さんのノーベル文学賞の賞状をつくりました」と口にしたのです。これには大倉さんをはじめ、私を含めそこにいた人たち全員がびっくりしました。

 三浦さんご自身もご存じなかったと。

 ええ、驚きました。ご存じのように川端さんは1968年にノーベル文学賞を受賞されていますが、その賞状をティニが制作していたのです。

 それは、その場でいちばんインパクトのあるすごい話ですね。

 それで、そのノーベル賞の賞状を展覧会に出すためお借りしようと、川端さんの奥様である秀子さんにお願いしました。ところが、意外なことに断られてしまったんです。

 えっ、それはなぜですか。

 「制作者にお見せできる状態ではない」と秀子さんはおっしゃいました。受賞記念の展覧会で展示したときに、ケース内に置いた水がこぼれて賞状にかかってしまい、ひどい状態になってしまったというのです。(つづく)