さようなら、森先生

8月5日に三宅一生が84歳で亡くなり、そのわずか6日後に森英恵が96歳で亡くなった。2人は12歳違いで干支は同じ寅(とら)だった。なるほどそういうものなのか。まさに「ジャパニーズ・ファッション」のパイオニアとして世界に雄飛した2人だったが、犬猿の仲とは言わないが、2人はお互いをかなり意識していたフシがある。

森英恵はファッションデザイナーとしては初めて1996年に文化勲章を受賞した。これに遅れること14年後の2010年に三宅一生は文化勲章を受賞。フランスのレジオン・ドヌール勲章でも2人は競い合っていたように見える。森英恵はレジオン・ドヌール・オフィシエを2002年受賞、三宅一生はその一格上のレジオン・ドヌール・コマンドゥールを2016年に受賞している。

改めて述べるまでもないが、ファッションデザイナーとして、2人は全く方向性が異なっている。いわゆる「エレガンス」を否定したところからスタートして、オリジナリティをつきつめた三宅一生に対して、森英恵は「エレガンス」をベースにしており、ディオール、シャネル、サンローランを筆頭にしたフレンチ・エレガンスの最高峰と同じ土俵で、自分のポジションを確立しなければならなかったのだから、これはこれでたいへんな苦労があったはずである。日本人女性としての細やかさと日本の素材や日本の伝統を活かし、さらに「蝶」というロゴを発案したりと東京女子大国文科卒の才女らしい発想が随所に感じられたものである。ファッション業界のバイブルと言われたニューヨーク本拠の業界紙「WWD(ウィメンズウェアデイリー)」を発行していたフェアチャイルド出版と合弁でその日本版「WWDジャパン」を1979年に創刊したのも、マスコミ対策の一環だったようだ。マスコミといえば1970年代後半から1980年代にかけて一世を風靡したファッション誌「流行通信」(1966年創刊、2008年1月号で休刊)も、そもそもは「ハナエモリ」のPR誌を森英恵のアイデアで雑誌化したと聞いている。

私は、この「WWDジャパン」に1982年から2020年まで38年間在籍していた。顔を合わせると「あら、三浦さん、ちょっと太ったんじゃない?」と必ず言われたものだ。しかしインタビューをすれば必ずリップサービスしてくれる彼女はマスコミから好かれる実にチャーミングなデザイナーだった。「話を盛る」わけではないが、インタビュー原稿が書きやすいデザイナーの筆頭だった。

森英恵の「エレガンス」をベースにしたクリエイションに対しては必ずしも称賛ばかりではなかった。三宅一生、川久保玲、山本耀司を「ジャパニーズ・ファッション」の本流と見なすジャーナリストやファッションフリークからは不当に閑却されていた。しかし、大衆からの知名度や支持は絶大だった。

この大衆人気は「蝶」のマーク(田中一光のデザイン)とHMのモノグラムを用いたライセンスビジネスが大ヒットしたためだ。トイレマットにまで蝶々が飛んでいると皮肉られた。森英恵によれば、彼女の生地の島根県南西部の端に位置する吉賀町は、厳寒の冬が終わって訪れる春には、蝶々がのんびりと舞ったという。そして、1961年の欧米旅行においてニューヨークのオペラハウスで見たプッチーニのオペラ「蝶々夫人」を初めて見た時の屈辱が忘れられないといくつかの自伝で彼女は記している。長崎で米国海軍士官の現地妻になった蝶々さんの悲劇を描いたオペラだが、この日本人の屈辱をなんとか晴らしたいという思いが蝶のマークには込められているとも記されている。

日本におけるライセンスビジネスは森英恵が嚆矢ではない。高島屋をはじめとした百貨店がパリのオートクチュールブランドのライセンスビジネスを始めたのが最初で、日本人デザイナーとして、この流れにうまく乗ったのがHMビジネスだった。しかしその後、「ハナエモリ」のビジネスは順風満帆ではなかった。1980年後半からの円高を背景にしたイタリアブランドを中心にしたインポートブームなどの影響で、ライセンスビジネスでブランドが摩耗したこともあってか、あるいは多角化がうまくいかなかったのか、グループ全体に元気がなくなった。1996年には自分をファッションの世界に引き入れてくれた夫の森賢が死去。2002年にはハナエモリなどのグループ中核のアパレル企業がついに経営破綻。2004年7月7日に森英恵はパリで最後のオートクチュールコレクションを発表。さらに2009年には、表参道のシンボルでもあり、グループの牙城だったハナエモリビル(オーナーは大林不動産)は建て替えにより消滅した。

森英恵にとって、晩年の20年は輝きに満ちたものではなかったが、それでもタレントになった孫娘の森泉、森星(ひかり)がブラウン管で大活躍して話題を提供してくれている。

今後の焦点は「ハナエモリ」ブランドが生き残っていけるのかどうかだろう。2002年のグループのアパレル事業破綻の時に、「ハナエモリ」の商標は三井物産・ロスチャイドグループがすでに保有していたが、現在はMNインターファッション(三井物産アイ・フッションと日鉄物産繊維事業部が事業統合した企業)の保有になっている。アパレルのライセンシーはオールスタイルで、日本の若手デザイナー天津憂続いて松重健太をデザイナーに起用して再生を図ったが、いずれもすでに退任しており現在は企画チームがデザインを行っている。1990年代にも「ハナエモリ」をラグジュアリーブランド化するプロジェクトが進行していて、海外の有力若手デザイナーをクリエイティブ・ディレクターに指名して復活するという育写真があったが、うまくいかなかった。デザイナーの存在があまりにも大きすぎたのだろうか。いずれにしても今の時代にこうしたエレガンスブランドが生き残るのはかなり難しい。

「ジャパニーズ・ファッション」を世界に発信し続けたビッグな存在がこのコロナ禍の2年間に次々と鬼籍に入っている。山本寛斎(2020年7月21日没、享年76)、高田賢三(2020年10月4日没、享年81)、三宅一生(2022年8月5日没、享年84)、森英恵(2022年8月11日没、享年96)。月並みな言い方だが、ひとつの時代の終わりを感じずにはいられない。

その中でも森英恵は私にとってはいちばん親しい存在だった。いつもは「森先生」と呼んでいた。30年ほど前だったか、ある祝日にNHKFMで「リクエスト 私の好きな曲」という特別番組があって、聞くともなく聞いていたら、なんと森先生がヴィヴァルディの「四季」をリクエストしていた。なんとも通俗的な名曲が好きなんだなあと逆に感心してしまったのを思い出す。いかにも森先生らしい。森先生の霊前にお供えするつもりでたまには「四季」でも聞いてみようか。

「森先生」と声をかけると、こちらを振り返って「あら、三浦さん」ときょとんとしたような笑顔を見せてくれるような気がする。

本当に「さようなら、森先生」。やっとゆっくり休めますね。