TOKYO MXのバラエティ『バラいろダンディ』の番組MCを中心に、ラジオパーソナリティや執筆・音楽活動と、幅広いジャンルで活躍するふかわりょうさん。「高学歴芸人」がめずらしくない昨今と違い、ふかわさんがデビューした30年前は「“慶應義塾大学在学中”という自身の経歴がテレビ的に映えていた」と言います。学生時代にお笑い芸人としてスタートしたふかわさんが、20代、30代とキャリアをどのように転換させてきたのか。その歩みを伺いました。(2024年3月インタビュー。全2回の連載。)

30歳、出川哲朗さんの言葉がキャリアの分岐点に

──ふかわさんは大学生でありながら、プロのお笑い芸人としてデビューされました。子どもの頃からお笑い芸人になりたかったのでしょうか?

子どもの頃から「テレビの中に入りたい」と思っていました。でも当時は僕に限ったことでなく、みんなが感じていたと思います。志村けんさんやドリフターズのバラエティ「8時だョ!全員集合」など、テレビの影響は凄まじかったので。その後、中学校の授業でチャップリンの無声映画を観たことと高校の文化祭で喜劇を演じたことで、見知らぬ人を笑わせたいと思うようになりました。

幼少からピアノを弾いていたこともあって、年齢を重ねることがハンディキャップではなく味になる職業を考えたら、僕の場合「お笑い」と「音楽」だなと。そこから「お笑い」を選んで、20歳で門を叩きました。

事務所に入って数か月後に、長髪に白いターバンを巻いた、現在の“あるあるネタ”につながる「小心者克服講座」というネタができて。そのネタで、僕の名刺を世の中に配る作業が非常にスムーズにいきました。でも難しいなと思ったのは、僕のネタは個人芸ですけど、バラエティ番組で求められるのは団体芸なんですね。

──20代で感じた団体芸の難しさは、どんなところにあったのですか?

「自分はお笑い芸人なのか、お笑いタレントなのか」と考えると、僕はお笑いタレントなんですよ。どのような違いがあるかというと、お笑い芸人は何よりも笑いを優先させる。でも、団体芸で行うバラエティ番組を1枚のキャンバスに描かれた絵画に例えるなら、タレントである僕は自我を殺してでも、キャンバスに対して自分の中にある1つの色をお貸ししますってことでしかなくて。

自分のやりたいことと、番組で求められることが一致していたら非常に心地良いと思うんですけど、必ずしもそうなるとは限らない。だから20代は、そのあたりの違和感を覚えつつ、諸先輩方に助けていただきながら「今、求められている色はこれかな?」と考えて、何とか若さで乗り切っていました。

でも30歳が近づくと、「番組の裏回し(メインMC以外のポジションの人が、さりげなく話を展開・フォローすること)をお願いします」というような、今までと違う要望をいただくようになって。そして実際に30歳で出川哲朗さんに言われたのが、「ポスト出川は、お前だからな」という言葉でした。

──出川さんに言われた言葉がキャリアの分岐点になったのですね。

もう、はっきりと覚えているんですよ。ロケの合間、本番でないところで、出川さんにポンッと膝を叩かれて。僕自身はいつまでこのキャラで行くのだろうと葛藤しながらも、なんとなく「いじられ芸人」の方向性に甘えていた頃です。

いじられ芸は難しいんです。テレビを観ている人は、タレントや芸人を無意識で「好き」「嫌い」とジャッジしています。すると、テレビの中で嫌いな人が痛い目に遭っていると、視聴者の人たちはどこか気持ちが良かったりするものなんです。

当時、出川さんは「抱かれたくない男 No.1」など、数々の異名を持っていました。僕も「慶応大出身」など、視聴者の鼻につく要素が多かったのだと思います。出川さんはそういう嫌われ役を引き受けて、覚悟を持って芸に徹している。僕も出川さんを尊敬しているだけに、「ポスト出川」と言われた瞬間、「多分、こっちじゃない」と。逆説的に、舵を切ることができた感じです。出川さんが現在、国民的愛され芸人であることは言わずもがなですが。

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30代で得られた、「やりたいこと」「できること」「似合うこと」のバランス

──「ポスト出川は、お前だからな」と言われたキャリアの分岐点は強烈でした。そのほかに、30代になって意識的に変えたことはありますか?

20代の僕はテレビ番組に臨むとき、いつも力んでいました。でもタモリさんや笑福亭鶴瓶師匠、所ジョージさんといった長く活躍している諸先輩方は、いつもリラックスしている。オンとオフを切り替えることなく脱力系で臨まれていて。先輩方を見て、「力んでいるままじゃ、30代、40代と、この先は乗り切れないだろうな」と思いました。

それでまず取り組んだのが、「テレビにしがみつくのをやめよう」ということ。「テレビの中に入りたい」と思ってこの世界に入ってきましたし、今でもテレビの世界は眩しいです。でもずっと芸能界で長く続けていくには、「しがみつくのをやめないと難しいだろうな」と思いました。

仕事の難しいところは、自分の「やりたいこと」「できること」「似合うこと」の尺度がそれぞれ違っていること。 これらがすべて一致する人は、本当に稀有な存在だと思うんですけど。30代になり、MCの仕事が少しずつ増えていくと、なんとなく自分の中で「やりたいこと」「できること」「似合うこと」のバランスが保てそうな場所に漂着できました。特に、37歳の時に就任した、TOKYO MXの『5時に夢中!』のMCは、帯番組ということもあり、僕の大きな節目となりました。

──『5時に夢中!』はワイドショースタイルの情報番組なので、各曜日のコメンテーターはマツコ・デラックスさんをはじめ、皆さん個性的。ふかわさんは番組を仕切るだけでなく、共演者の奔放な発言にちゃんと困惑し、心をいつも動かしている司会者として、新しいMC像を確立されましたね。

いえいえ……新しいMC像というのは意識していません。でも『5時に夢中!』は生放送の情報番組。編集の効かない生放送の番組は音楽と同じだと感じ、理屈以上にテンポや緩急を重視していました。

──共演者の方を楽器だと思っていたそうですね。

そうです。雑に叩いてもよく響く打楽器のような方もいれば、繊細な音を出す方もいる。コメンテーターが放つ言葉を「音」として捉えているので、指揮者のような気分でした。共演者と事前の打ち合わせはせずに、毎回ぶっつけ本番。しっかりと打ち合わせをするMCの方もいらっしゃると思いますが、僕は何も知らない方がスタジオで新鮮に感じられるのです。

でも一番大事なことは、視聴者を信じることです。現在の『バラいろダンディ』でもラジオでも、やっぱり視聴者やリスナーを信じて届けないとダメなんですよね。

──ふかわさんは今年50歳になります。50代でやりたいことは何でしょうか。

執筆、作曲、DJ活動は続けていきますが、50代は文章表現の比重が若干高まるような気がしています。

後編: 心躍ることを続けていくのは、仕事のテクニックより大事。ふかわりょうがたどり着いた「心地良いはたらき方」

プロフィール

ふかわりょう

1974(昭和49)年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学在学中の20歳でお笑い芸人としてデビュー。長髪に白いヘアターバンを身につけた「小心者克服講座」でブレイク。「あるあるネタ」の礎となる。以降は『内村プロデュース』(テレビ朝日)などのバラエティ番組を経て、『5時に夢中!』(TOKYO MX)でMCとして地位を確立。現在は『バラいろダンディ』(TOKYO MX)でMCを務めている。また20代から続くDJや音楽活動のほか、2024年4月から新たに『ロケットマンショー』(Fm yokohama)が開始。小説『いいひと、辞めました』(新潮社)を2024年3月に上梓。その他の著書に『スマホを置いて旅したら』(大和書房)、『ひとりで生きると決めたんだ』『世の中と足並みがそろわない』(新潮社)、アイスランド旅行記『風とマシュマロの国』(幻戯書房)がある。

取材・文: 横山 由希路
編集・撮影: 求人ボックスジャーナル編集部